第9回は政治メディアサイト「ポリタス」を運営しているジャーナリストであり、メディア・アクティビストの津田大介さんです。4回構成の1回目は、ジェンダー観に影響を与えた体験についてお伺いしました。
特殊な家庭環境によって生まれた視点
アルテイシア(以下、アル):対談集『田嶋先生に人生救われた私がフェミニズムを語っていいですか!?』を出版した後、津田さんの『ポリタスTV』にオンライン出演させてもらいましたが、リアルで会うのは初めてですね。
今回は自身のジェンダー観に与えた影響や、男らしさの呪いの話など、楽しくおしゃべりできたらと思います。
津田さんは『ポリタスTV』でも、ジェンダーやフェミニズムに関するテーマを扱ってますよね。家庭環境がジェンダー観に与えた影響はありますか?
津田大介(以下、津田):うちの父は1942年生まれで、大学時代に学生運動の道に入り、そのまま就職せず社会党系の政治組織に入り、労働組合の専従(従業員でありながら労働組合の活動に専念する人)や国会議員の秘書などをしてたんです。いろいろな仕事をしていましたが一言で言えば「活動家」ですね。
母は1944年生まれで、高校卒業後に国立大学の職員――公務員になりました。両親は労働運動を通じて知り合って結婚し、共働きだったのですが、仕事的に不安定な立場の父と安定した立場の母という夫婦で、必然的に家計の主は母だったんですよね。
両親の出会いは労働運動ということもあり、よく議論してました。対等に話してよくケンカもしている家庭で育ちました。
アル:母親に経済力があることは大きいですよね。ただ夫婦が対等に稼いでいても、家事育児は妻に負担が偏るケースが多いですが、津田さんの家庭はどうでしたか?
津田:うちは父が家事を担ってました。ただ、それには特殊な事情があって。
僕が小学校に入ったばかりの頃に母が職場で大怪我をしたんです。棚の上から重い荷物が落ちてきて、首に直撃するという事故だったんですが。
アル:なんということ……。
津田:それで母はむち打ち症になり、当初は時短勤務が認められていたのですが、その後職場から通常勤務を命じられ、納得できないということで職場を相手取って労災の裁判を起こしました。
母は長期にわたって体調が悪く、僕が学校から帰ると寝たきりの状態になっていることも多かったんです。それもあって母の体調が悪いときは父が家事全般を担っていました。父は今年で81歳ですが、その世代の男性では珍しいことですよね。
特殊な事情があったにせよ、そういう家庭環境が僕の性別役割分業意識に影響は与えていると思います。
アル:たしかに。我々世代は両親の姿を見て「家事育児は女の仕事」と刷り込まれてますよね。男性は特に「自分の親父に比べたら俺は家事育児を『手伝ってる』のに、なんで文句言われなきゃいけないの?」みたいな感覚の人が多いなと。
津田:そうですね。母の体調が悪かったので、僕も妹もある程度小さいころから家事はやってて、今でいうヤングケアラーでもありました。母が全然出勤できず父の仕事も決まらずみたいなときは経済的にも厳しく、夕飯のおかずがじゃがいもを炒めたものしか出てこないなんてこともありましたね。「あっうちって貧乏なんだ」って。
アル:そんな大変な状況で、裁判も戦ってたんですよね?
津田:母の裁判は結局提訴からまる10年かかりました。国立大学が相手方なのでそうすると国相手の国賠訴訟になるんですよ。国賠訴訟で勝つのは難しく、最高裁まで行きましたが結局敗訴で終わりました。小学校低学年から高校生になるまでずっと親が国を相手取って裁判していたということになりますね。この経験が自分がいまの仕事に就いた原点になっていますし、政治的な態度を規定しているようにも思います。
不合理な校則や体罰、ホモソーシャル地獄
アル:私が1976年生まれで津田さんが1973年生まれで、同世代ですよね。
私は女子校から共学の大学に進んだとき、男子たちのホモソーシャル(※)なノリに衝撃を受けました。
※性愛を除く男性間の連帯や結びつき。同性愛嫌悪(ホモフォビア)や女性蔑視(ミソジニー)を伴うことが多い。
体育会系の男子たちがオタクっぽい男子をからかったり、プロレス技をかけたり、集団で弱いものイジメをしてたんです。私も見た目イジリやセクハラをされて傷つきました。
私たちの学生時代はそういうノリにイヤでもイヤと言えない地獄みが強かったですが、津田さんはどうでしたか?
津田:僕の出身地である東京都北区は23区の中でも世帯年収がワースト5に入るようなところなので、それなりに荒れてましたね。中学時代はヤンキーが周りにたくさんいましたし、近所のコンビニで暴走族が集会やったりもしてました。校則は厳しいし教師は殴るし、学校が大嫌いでした。
アル:当時は日本列島にヤンキーが多数生息してましたよね。教師が生徒を殴るのも当たり前で、子どもに人権がない野蛮な時代でした。
津田:中学は野蛮だったけど、高校は全然違ったんです。僕が進学した板橋区の都立北園高校は制服や校則が一切なくて、教師が生徒を一人前の人間として接する、素晴らしい学校でした。
アル:おお~野蛮な世界から民主主義の世界に脱出できたんですね。
津田:はい。これは自分がジェンダーの問題に関心を持つようになったあとにわかったことですが、その高校ではいわゆる「ホモソノリ」もあまりなかったんですよね。イケイケの体育会系男子や女子とよく遊んでるグループはいるんだけど、オタクグループやガリ勉の生徒もいて、それらが自然とクラスター化していた。そのクラスター同士がお互いに干渉せず、ちょうど良い距離感があったんです。端的に言うと「スクールカースト」のようなヒエラルキーや、いじめがなかった。
アル:わかります。私の通った女子校もグループは分かれていても、ヒエラルキーはなかったと思います。優等生もギャルもオタクも平和に共存している感じでした。
母校はアメリカ人宣教師の女性が作った私立の女子校で、校則も制服もなくて、びっくりするぐらい自由でした。
春夏秋冬同じジャージで通学する子もいれば、パーマにピアスのギャル系もいて、奇天烈なシノラーファッションの私もいて(笑)。
そんな多様な女の子たちがみんなで木に登って柿をもいで食ったりとか、猿っぽい青春でした。
津田:それは平和ですね(笑)。
アル:毒親育ちの私は家が戦場だったので、学校が避難所みたいな感じでした。
不合理な校則のない学校はいじめが減るという調査や、体罰を禁じることで若者の暴力性が劇的に減るという調査もあります。
ストレスの強い環境だと「弱い者がさらに弱い者を叩く」状態になりがちですよね。
津田:そうですね。ただ北園高校は良い学校でしたが、当時の男女比は2対1くらいでした。
男女別定員制によって性別で合格ラインが変わって、女子の方が30点くらい高かった記憶があります。だから明らかに女子の方が学力的にも優秀でしたし、人格的にも大人でしたね。当時も違和感はあったものの、「これは差別だから是正すべき」とまでは考えが至らなかったです。
アル:頭にくるのが、男子が多いときは誰も文句を言わなかったのに、女子枠を3割設けるとか言うと「女性優遇」「逆差別」とトンチキに叩く連中がいることです。
差別があるから是正しようという話なのに、理解できてないのか、マジョリティの自分の下駄を脱がされるのが嫌なのか。
医大の不正入試が発覚した後、医学部の合格率が初めて男女逆転したというニュースを見て、どれだけの女の子が夢を潰されてきたのか……と涙が出ました。
入試は点数だからわかりやすいだけで、ほとんどの企業が性差別をしてきたわけです。人事の仕事をする友人たちは「性別問わず採用できるなら、8割女子になる」と言います。でも実際には優秀な女子が落とされて、いまだに新卒の8割が男子といった企業も珍しくない。
津田:以前は就活での性差別がもっと露骨でしたよね。僕は1997年に就活をしていて、マスコミ志望だったんです。資料請求すると大学別の分厚い冊子が届いて、同じ学部の男女で厚さが男性の方が5倍くらい厚かったけど、当時は「女性は大変だな」という意識で止まってて、積極的に是正しなければいけないとまでは思っていなかった。
アル:若い方は「平安時代かしら」と思うでしょうが、かつては就活の資料が紙だったのじゃよ。
私は共学の大学に進学して、男尊女卑にぶん殴られました。女子校では「自分の意見をはっきり言おう」と教育されたのに、大学ではっきり意見を言うと「女のくせに生意気だ」「出しゃばるな」と男子から叩かれて。
「賢い女はムカつく、女はバカなほうがいい」と堂々言ってのける男子もいて「この世界は地獄だ」とアルミン顔になりました。津田さんの大学時代はどうでしたか?
津田:高校があまりに楽しすぎて先生も「勉強しろ」とか一切言わない、でもギリギリ進学校だったので、生徒の7割が浪人するんですよ(笑)。ご多分に漏れず僕も一浪して何とか早稲田大学に入ったんですが、全然大学に馴染めなくて。その頃は家庭もいろいろ大変で、音楽をやりたいけどバンドサークルで盛り上がる気持ちになれず……鬱屈してましたね。
アル:バンドやろうぜ、ウェーイ!みたいな気分じゃなかった。
津田:なかったですね。でも新歓の時期に「多重録音芸術研究会」というサークルに出会いまして。
アル:そういうのもあるのか。井之頭五郎みたいな顔になってますけど。
津田:(笑)。メンバーがそれぞれ宅録――あ、これは「自宅録音」の略です。家で音楽を作ってそれを1ヵ月に1回「鑑賞会」という活動で発表しあって、お互いに批評し合うという暗いサークルなんですけど、音楽活動より飲んでしゃべってる方が多かったですね。でもそれがすごく楽しかったんです。
そのころ日本でも盛り上がりつつあったクラブカルチャーにも近いサークルで、普通にサークルメイトにセクシュアルマイノリティーもいました。セクシュアリティについて自然に話せる環境にいたので、知らないがゆえの偏見は小さくなったのではと思います。
アル:就職してからはどうでしたか?
津田:高校で解放されたのはよかったんですけど、就活に失敗してアルバイトからライターの世界へ入り、ホモソの渦に放り込まれました。
アル:ホモソの渦。まがまがしい渦ですね。
津田:ライターは自分で仕事を取る必要があって、編集者との付き合いが大事になってくるわけです。飲みの誘いがあったら必ず行くようにして、男性編集者とくだらない話をして、夜中まで付き合ってましたね。
アル:男社会のノミニケーションってやつですね。昭和の香りがぷんぷんします。
津田:でもどこかでそういうコミュニケーションを楽しんでいる自分もいましたね。自分は小中学校ではクラスのカースト上位にいたわけではないので、初めて「上流」層に入れた嬉しさのようなものもあったんです。後から思えばまったくのくだらない勘違いなんですけど。
アル:へえ~! 私は絶対入りたくないですけど。当時の津田さんには、エリート強者男性になりたいけどなれないみたいな劣等感もあったんですか?
津田:どうなんでしょうねぇ……。なりたい自分もいるし、なりたくない自分もいる感じでどっちつかずだったと思います。
ちょうどITバブルの頃で、自分より1学年上の堀江貴文さんがメディアで大注目を集めていたときに取材したこともあって。わかりやすく功績のある人と、名前で食べていけない自分を比較していました。若くして活躍している人の迷いのない感じを見て、憧れるところもありましたね。
アル:私は人生で一度もホリエモンに憧れたことがないですよ。
津田:うーん……当時の自分は「自分が何者でもない」ことへの劣等感が強かったんだと思います。仕事は楽しかったけど、食べていくためのバランスも取らなきゃいけない。でも答えが出ないので、あまり考えないようにして、目の前の仕事に没頭してました。
アル:ホリエモンにならなくてよかったですね。
私はエリート強者男性が苦手なんです。大学の飲み会で「お前みたいなブスと飲みたくない、もっと可愛い子呼んでよ」とか言われた恨みもあるし。
新卒で入った広告会社は新自由主義の肥溜めみたいで、社員証をぶらぶらさせて朝から晩までコスパコスパ言うてる連中をひたむきに嫌ってました。
津田:ひたむきに(笑)。
アル:はい! 今でも大学に授業に行ってオラついたアメフト集団とか見ると、警戒センサーが作動します(笑)。
次回、第2回では、ジェンダー観が変わったきっかけについて語ります。
構成:雪代すみれ
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作者・編集部で拝見させていただきます。
1973年生まれ。東京都出身。早稲田大学社会科学部卒。ジャーナリスト/メディア・アクティビスト。ポリタス編集長/ポリタスTVキャスターとして、メディアとジャーナリズム、テクノロジーと社会、表現の自由とネット上の人権侵害、地域課題解決と行政の文化事業、著作権とコンテンツビジネスなどを専門分野として執筆・取材活動を行っている。 主な著書に『情報戦争を生き抜く』(朝日新書)、『ウェブで政治を動かす!』(朝日新書)ほか。