「自己肯定感」の本来の意味は、浮き輪
過去の自分を振り返ると、浮き輪がない状態で生きていたと思う。
ここで言う浮き輪とは「自分はこの世界に生きていていいんだ」「どんな自分でも生きていてOK牧場」という感覚である。
親から無条件に愛される経験をした人は、この浮き輪を持っている。だから必死で泳がなくても浮いてられるし、荒波が襲ってきても溺れずにすむ。
一方、親から愛されなかった人、「あんたなんか産むんじゃなかった」とか言われて育った人は「自分はこの世界に生きていていいんだ」と思えない。
また「親の期待に応える良い子でいなきゃ」と条件付きの愛情しかもらえなかった人も「どんな自分でも生きていてOK牧場」と思えない。
浮き輪がない状態で生きるのは、めっちゃしんどい。溺れないよう必死で泳ぎながら、自力で浮き輪をゲットしなきゃいけない。
親から否定されて育った人が、ありのままの自分を肯定できないのは当然である。
親からダメ出しされて育った人が「自分はダメだ」と思い込む癖がつくのも当然である。
これは断じて本人の責任ではない。子どもにそんな呪いをかけた親が悪い。
だからフレンズたちよ、自己肯定感の呪いに苦しまないでほしい。
「自己肯定感」の本来の意味は、この浮き輪のようなものだと思う。
本人が努力して手に入れたものじゃなく、ありのままの自分を肯定してくれる他者のおかげで、いつのまにか自然に身についたもの。
本来、自己肯定感とは「自分を好きになれなくても、自信を持てなくても、自分は生きていていいんだ」と思えることだろう。
ところがどっこいしょういち、「自己肯定感を高めるために努力しよう」「自分を好きになろう」「自分に自信を持とう」みたいなメッセージが世に溢れている。
そのせいで「自己肯定感を高められない自分はダメだ、自分を好きにならなきゃ、自信を持たなきゃ」とプレッシャーに苦しむフレンズは多い。
そんなの本末転倒オブザデッドである。
それに「自分を好きにならなきゃ、自分に自信を持たなきゃ」と自分にばかり意識が向くと、余計に生きづらいと思う。
毒親育ちは自分に一番厳しい視線を向けがちなので「やっぱり自分はダメだ」「こんな自分を好きになれない」と堂々巡りになってしまう。
私は自分を好きになることよりも、好きになれる人やものを見つけることをおすすめしたい。
『友達の作り方~ゴリラ型で生きたい人へ~』で書いたように、私は友達を作る努力をしてきた。
「この人のこと好きだな」と思う人は自分から誘って、マーベラスな友達を増やしていった。
すると「こんなマーベラスな人が仲良くしてくれるなんて、私もそんなにダメじゃないかも」「この人といる時の自分はわりと好きかも」とじょじょに思えるようになってきた。
自己肯定感を高める系の本には「自分の良いところを書き出そう」とか載っているが、ダメ出し癖のある人は良いところが浮かばなくて落ち込んでしまう。
私も「自分の良いところ…快便なところ?」とか書きながら「何やってんだ自分」と虚しくなった。
それよりも、他人の良いところを見つける方がおすすめだ。そういう視線で人と接していると「この人のこと好きだな、友達になりたいな」と思う人が見つかりやすいから。
また他人の良いところ探しをする癖がつくと、自分の良いところも見つけやすくなるので試してほしい。
「目に見える結果」の落とし穴
連載のタイトル通り、生きづらくて死にそうだったからいろいろやってみた。自己肯定感を高めるために、仕事、勉強、資格取得、ダイエット…など努力してみたこともある。
たしかに努力の結果が出ると、それなりに自信はつく。
けれども「目に見える結果」にこだわると、結果が出なかった時に自信喪失してしまう。また努力できない自分に自己嫌悪したりもする。
私は三日坊主ならぬ三日大僧正と呼ばれる根気のない人間なので、自信喪失&自己嫌悪パターンが多かった。
また結果が出て自信がついても、それは一過性のものだったりもする。
「次の目標を見つけて達成せねば!!」と努力してない自分を認められない状態になるのは、本来の自己肯定感とは真逆なんじゃないか。
そんな鼻ニンジン状態じゃなくても、どんな自分でも生きていていいと思えるのってどんな時?
その答えは人それぞれ違うだろう。私の場合は、人からの愛情を感じた時と人の役に立っていると感じた時だ。
という話をしたら「め~~っちゃわかる!」と友人Nちゃんが膝パーカッションしてくれた。
「私もコロナにかかって自宅療養していた時、それを実感しました」と彼女は語る。
私も療養中の彼女にゼリーの詰め合わせセットを送った。贈り物のセンスがお中元っぽいのは中年あるあるだ。
他の友人たちも食べ物や飲み物を差し入れしてくれたり、「必要なものがあったら言ってね」「生理用品は足りてる?」と気づかってくれたという。
「友人たちからの愛情を感じて、いつ死んでもいいと思っていた私が生きようと思えたんです。自分でもびっくりです」
そう振り返る彼女に「コロナにかかって良かったね」とはもちろん思わないけど、気持ちはめ~~っちゃわかる。
自分を大切に思ってくれる人、自分を気にかけて支えてくれる人がいることで「生きていていいんだ」と思える。やっぱりヒトは群れを作って生きる、社会的な生き物なんだと思う。
推しはすごいけど、生身の人間との触れ合いもすごい
余談だが、私も先日PCR検査を受けた。「唾液を出すのに苦労した」と聞いていたので、推しの画像を用意して臨んだら、怖いぐらい無限に唾液が出た。
推しってすごい、推しは人生の光、推しへの課金は光熱費…と私も思うが、推しは生理用品を買ってきてはくれない。
やっぱり生身の人間との触れ合いや支え合い、他者から肯定されたり愛情をもらったりする経験が、浮き輪の材料になるのだろう。
美味しいものを食べたり楽しみなイベントに出かけたり、そういう瞬間も幸福感を感じる。あくまで私の場合だが、人の役に立った時の方が幸福感が持続する気がする。
だから三日大僧正だけど、物書きの仕事は続いているのだと思う。
自分の書いた文章を読んで「役に立った」と言ってくれる人が一人でもいれば、生きていていいと思えるから。
「アルテイシアの大人の女子校」という読者コミュニティを作ったことで、それをより実感した。
女性が安心して本音を話せる場所、気の合う女友達に出会える場所を作りたい。女同士でキャッキャウフフしたいし、みんなで芋ほりとか行きたい。
そんな思いで大人の女子校を始めたが、結果的に自分がすごく救われた。
「毒親、フェミニズム、セクシャリティ、政治など、他では話しにくいことを話せて嬉しい」
「本音や悩みを打ち明けて、理解共感してくれるフレンズがいることに救われる」
メンバーからそんな言葉をもらうと「少しは人の役に立てたかも」「自分も生きていていいかも」と思えるから。
また、困った時に支え合えるメンバーがいることにも安心感を抱いた。
生きづらさを感じている人は、人の役に立つことをしてみるといいかもしれない。
社会活動でもボランティアでも、試しにやってみれば「気づいたら自分のこと前より好きになってるな」と感じて、生きやすくなるかもしれない。
私の場合はそうだった。
目に見える結果じゃなく、目に見えないもの、他者とのつながりの中で救われて、気づいたら腹に浮き輪がついていた。
親に自己決定権を奪われて育った友達が格闘技を始めた結果…!
最後に「会うたびに首が太くなる女」の話をしよう。怪談とかスタンド使いの話じゃなくて、毒親フレンドMちゃんの話である。
Mちゃんは子どもの頃から親に自己決定権を奪われて育った。服装も習い事も部活も進路も職業も何もかも親に決められたため、自分が何を好きなのかわからなかったそうだ。
彼女は世間的にはハイスペエリートで、結婚して子どもにも恵まれたが、いつもうっすら死にたい気分だったという。
そんな彼女が数年前「今、人生で初めて自分の好きなことをやってる」と話していた。
たまたま子どもの付き添いで格闘技スクールの見学に行き、「自分もやってみよかいな」と試しに入学してみたところ、ドハマりしたそうだ。
「親なんか秒で締め落とせると思ったら、親が怖くなくなった」と語る彼女は会うたびに首が太くなっていき、幸せそうな顔になっていった。
「好きなことに夢中になってる自分を悪くないと思えるし、できなかったことができるようになるのも嬉しい。格闘技つながりで新しい友達ができて、世界が広がったのもよかった」
「だから全部解決ハッピハッピーってわけじゃないけど、自分を守る盾を手に入れた気分」
彼女が格闘技に出会ったのは、たまたまだ。偶然の出会いが人生を変えることがあるので、いろいろやってみるのがいいと思う。続くか続かないかは、やってみないとわからないし。
私もいろいろやってみた結果、「自分にはダメなところも嫌いなところもあるけど、それでも生きていてOK牧場」と思えるようになった。
フレンズたちが自己肯定感の呪いから自由になって、浮き輪をゲットすることを祈っている。
読んでいただきありがとうございます。
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作者・編集部で拝見させていただきます。